メディチ家の面倒くささと、中世共和制国家
フィレンツェでかならず出てくるメディチ家。
しかし、それはフィレンツェ共和国では末路に出てきた、新興財閥です。
中世のイタリアの都市は都市が周辺の貴族を制圧、土地貴族は都市貴族に変貌し、都市の富裕層と、共に支配層を形成していきます。
中世の共和制というのは、1)王や伯爵など、一人のトップがいない 2)合議制で決める。
というのが特徴ですが、非常に遅れた制度で、古代ギリシャやローマ共和国の共和制に比べ、脆く、小都市にしかつうようしませんでした。
共和制、現代の民主共和国に通じますが、常に決定に時間がかかります。 そのため、ギリシャやローマでは、独裁官の様な制度を導入し、緊急時に備えますが、トスカーナの多くの都市はそういう制度がありませんでした。
小さいコムーネで争っているうちはどうでも良いですが、その後街も発展、大都市同士の戦い、フランスやスペインなどの大国家が成長し、イタリアコムーネは対応ができなくなります。
その場合は
1)共和制をやめ、君主〜官僚制にする。このころはこれが、一番効率的でした。
2)ローマ共和国のような、少数の元老院と、更に少数の決定機関と執政官を置き、緊急時に対処する。 これは、残念ながらトスカーナでは行われず、イタリアではベネチアが有名です。ベネチアだけが、ナポレオンまで、共和体制を維持します。
フィレンツェでは、ローマ帝国の始まりの様な、一種第一人者のメディチがのしあがります。
薬屋とも、金融ともいわれますが、メディチ家はあのパッティ家よりずっと、新興で、田舎の農家の出身です。
ローマに食い込み、急激に経済力をつけたメディチ家は、コジモの頃に全盛期を迎え、一見共和制、合議制のまま、実際はメディチの君主体制になりました。
が、メディチ家は成り上がりで、名前が欲しくローマ貴族と結婚、生まれたロレンティーノ(あの有名なパッティ家の陰謀で生き残った兄の方)、はイタリア政治に乗り出します。
ミラノ、ナポリと3国同盟を結びローマ法王を牽制します。
が、実際は子供を枢機卿にするため、お金をばらまき10台での枢機卿が誕生します。
が、そのロレンティーノの子供の時代に、フィレンツェからメディチは、人心が離れ、追放され、サボナローラの神権体制になります。
で、ここで実際、共和制の実態はといえば、旧貴族と都市富裕層の合体による、経済力のあるものによる、議会があり、そこで決定されてました。これは、ローマからベネチア、にいたるまで、教育が行き届かない時代は得てしてそうなのです。
ただ、一般民衆が満足できるか、させられるかで、ローマやベネチアは成功し、フィレンツェは失敗し、旧支配層より、新興成金メディチに移行、その後、神権政治へと翻弄されます。
メディチが面倒なのはやたら、フィレンツェを追放されたり、復活したりするのもありますが、やたらコジモが多いのです。
結局、若い枢機卿はローマ法王になり、引き立てで甥を枢機卿にして、それもローマ法王になります。 チェーザレボルジアの時代の後が最初のメディチ法王で、運悪くスペイン=ドイツが同じ君主カール5世になったのが、2代目のクレメンテ法王です。
スペインードイツはフランスと結ぼうとしたイタリア諸国やローマ法王を、ドイツ軍を南下させ、フランスを蹴散らかし、ローマは占領。 南イタリアも完全にスペインの支配下になります。
これは、かつての神聖ローマ帝国のフリードリッヒ2世が夢見た、ドイツーイタリアの合体がなしえた、瞬間です。
ここで、法王クレメンテは、妙な条件を持ち出し、負けたはずが、カール5世にフィレンツェにメディチ家を復活させます。
その時点で、フィレンツェは共和国としては消え、トスカーナ公となります。 その勢いでシエナ、モンタルチーノと占領し、領域国家になります。
その後、乱れたダメな当主が続き、メディチ家は本流が殺され、謀計のまた、コジモ1世が、フィレンツェを占領します。 若いながら有能で領土を広げ、トスカーナ大公になります。
といった風に、コジモと出てきますが、いっぱい入るんですね。 そして、金満家のメディチというのは、初期の頃のコジモで、金融で稼ぎ商人でした。
が、ロレンツオなど有名ですが、お金は判らず、政治に力をそそぎ、その後復活したメディチは自分が稼ぐのではなく、税金を取り立てる、当主になります。
このように15−16Cは激動の時代で、共和制のままの国、シエナなどは消えていきます。
君主制に移行したフィレンツェは生き残りますがイタリアコムーネの精神は消えます。
唯一、ベネチアだけが、19cまでイタリアの共和制の伝統を守ったと言えるでしょう。
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