イタリア中世共和制の実態と消滅

(神聖)ローマ帝国=ドイツ王+イタリア王の領地でありつつ、ドイツの都市とイタリアの都市は対称的です。

ドイツ都市は周辺の、大貴族の領邦に対して、都市が皇帝直属の帝国都市として独立を守ったのに対して、イタリア北部の都市は、貴族の領土の中から、依存するものの無く、小さいながら少しずつ発展していきます。

時代はイタリアの小都市の味方をしました。フランク系だったローマ帝国の分裂の悪化と、法王の皇帝への、対抗心です。 都市は、それぞれドイツ皇帝系、法王系と別れ=一応、実は名分ですが、皇帝が南下してきたりすると、皇帝系は迎えて、法王派(法王はチェーザレボルジアまで実戦部隊を持たないので、傭兵か法王に付いたフランス王など)が入ってくれば、法王系が迎え入れます。


ごちゃっとした時代は、十字軍の時代を得て、コムーネを成長させます。 元来、貴族からの独立で出来た都市ですので、共和制であることが多かったです。

それは、前回、書いた様に、1)王などがいない 2)ある程度の有力者の多数決で決める。


という、程度の共和制です。ですので、今の民主共和制みたいに、庶民の為であったかは、王制と比較して、判らない所があります。

あくまでも、今で云えば、かなりの上層の商人、職人頭=工場長、金融家などが仕切る共和制は、実態としては、古代ギリシャの共和制より、当然ローマ共和国の共和制より遅れた制度と云えるでしょう。

ベネチアを除き、古代の共和制の制度などを知るべくもなく、この制度は有力者の内紛、緊急時の対応の遅さを招き、コムーネが大きくなれば成る程、対応が困難になります。

フィレンツェ出身のマキャベリが、コジモの孫のロレンツオに仕えた後に、書いた本では、ローマ共和国やベネチアのような、有力者の国会以外に、少数の政策決定機関が無ければいけない、緊急時の数人の独裁制を認めないと 1)共和国は、王制などに変わるしか無い、か2)滅びる

と、書いてますが、現実はそのように向かいます。


スペイン、イタリア、ドイツの王を兼ねた、カール5世が誕生して以来、フィレンツェすら公国、ジェノバ、ミラノは単なる植民地、に成り果てます。

唯一、貿易を通じ古代の知識の元に政治制度を作り上げた、ベネチアだけが18Cまでイタリア都市の共和制を維持していきます。


何故に、他の都市がベネチアの真似をしなかったと、云えば、内部の有力者の内紛がイタリアでは強くなりすぎ、少数の人間や執政官などを認めると、自分達が追放処分などを受けるのでは、という不安があったからです。


一時、イタリア都市に向いていた、皇帝系、法王系は一つ一つの都市にもあり、実際、有力者の追放は中世以来相次いでいたのです。 ベネチアだけが、キリスト教からも離れ、皇帝、法王からも等距離をとり、その結果そういう制度を作り得たのでしょう。

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